震災1年
2012年 03月 10日
あまりにもあっという間に、1年が巡りました。
停電で情報が少なかった地震直後の不安や、物流が滞ったことによる不便、日に日に悪化していった原発の状況と放射能への恐れが、自分の中で徐々に薄れていることを情けなく、不甲斐なく思います。
それらを忘れないことが、今も苦しんでいる人たちに何かをしたいという気持ちの原動力だと思うからです。今も苦しむ人たちに心を寄せるには、あの日あの時に自分が感じたことを手がかりにするよりほかないと思うのです。
だからというワケでもないけど、最近、震災関連の本を読み漁っています。
中でも、読みたくてずっと気になっていたのが「遺体~震災、津波の果てに」という1冊。釜石市の廃校を利用して設けられた遺体安置所にかかわる人々を取材したルポルタージュ。情報も物資も少ない極限の状況下で、亡骸に向き合って活動する様々な立場の人々の姿を描いている。
内容に関しては、アマゾンの書評を読んでもらえればいいんですが、自分にとっては、ボランティアに行った釜石の瓦礫の街並で、こんなことが起きていたということが衝撃でした。
もちろん、ニュースを聞いたり自分で現地に行ったりして、想像はしていたんですが、当然のことながら、現実はそれを遥かに凌駕しているわけで。
5月21日に、はじめてのボランティアで大槌町に行った時、釜石市経由で向かっているので、自分が初めて見た被災地は釜石の中心市街地です。「遺体」によると、地震直後はすべてが瓦礫と泥が覆い尽くしされて、交通封鎖で住民は中に入れず(それでも別のルートからは入れたようだが)、野ざらしの遺体が何日もあったそうだ。
5月の時点でも、道路は通れるものの、それ以外の場所には瓦礫や車が山積み、という状態だったが、ボラバスから見たあの場所に、たくさんの人が埋まってたかと思うと、それは十分わかってたけど、やはりショックだ。
ほかにも、ボラセンがあった場所が市役所の仮庁舎としても使われてたりとか、通った道のすぐ近くに安置所があったりとか、ただ通り過ぎただけの場所であった事を補完してくれるのが、とてもありがたいです。
それにしても、泥を大量に飲み込んで窒息して死ぬとか、生まれた町の上を漂いながら焼死するとか、いったい誰がそんな死に方を予想しただろうか。


2011年5月21日の釜石。
停電で情報が少なかった地震直後の不安や、物流が滞ったことによる不便、日に日に悪化していった原発の状況と放射能への恐れが、自分の中で徐々に薄れていることを情けなく、不甲斐なく思います。
それらを忘れないことが、今も苦しんでいる人たちに何かをしたいという気持ちの原動力だと思うからです。今も苦しむ人たちに心を寄せるには、あの日あの時に自分が感じたことを手がかりにするよりほかないと思うのです。
だからというワケでもないけど、最近、震災関連の本を読み漁っています。
中でも、読みたくてずっと気になっていたのが「遺体~震災、津波の果てに」という1冊。釜石市の廃校を利用して設けられた遺体安置所にかかわる人々を取材したルポルタージュ。情報も物資も少ない極限の状況下で、亡骸に向き合って活動する様々な立場の人々の姿を描いている。
内容に関しては、アマゾンの書評を読んでもらえればいいんですが、自分にとっては、ボランティアに行った釜石の瓦礫の街並で、こんなことが起きていたということが衝撃でした。
もちろん、ニュースを聞いたり自分で現地に行ったりして、想像はしていたんですが、当然のことながら、現実はそれを遥かに凌駕しているわけで。
5月21日に、はじめてのボランティアで大槌町に行った時、釜石市経由で向かっているので、自分が初めて見た被災地は釜石の中心市街地です。「遺体」によると、地震直後はすべてが瓦礫と泥が覆い尽くしされて、交通封鎖で住民は中に入れず(それでも別のルートからは入れたようだが)、野ざらしの遺体が何日もあったそうだ。
5月の時点でも、道路は通れるものの、それ以外の場所には瓦礫や車が山積み、という状態だったが、ボラバスから見たあの場所に、たくさんの人が埋まってたかと思うと、それは十分わかってたけど、やはりショックだ。
ほかにも、ボラセンがあった場所が市役所の仮庁舎としても使われてたりとか、通った道のすぐ近くに安置所があったりとか、ただ通り過ぎただけの場所であった事を補完してくれるのが、とてもありがたいです。
それにしても、泥を大量に飲み込んで窒息して死ぬとか、生まれた町の上を漂いながら焼死するとか、いったい誰がそんな死に方を予想しただろうか。


2011年5月21日の釜石。
# by fujiiymk | 2012-03-10 22:24 | 震災・ボランティア | Trackback | Comments(0)









