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震災1年

あまりにもあっという間に、1年が巡りました。

停電で情報が少なかった地震直後の不安や、物流が滞ったことによる不便、日に日に悪化していった原発の状況と放射能への恐れが、自分の中で徐々に薄れていることを情けなく、不甲斐なく思います。

それらを忘れないことが、今も苦しんでいる人たちに何かをしたいという気持ちの原動力だと思うからです。今も苦しむ人たちに心を寄せるには、あの日あの時に自分が感じたことを手がかりにするよりほかないと思うのです。




だからというワケでもないけど、最近、震災関連の本を読み漁っています。

中でも、読みたくてずっと気になっていたのが「遺体~震災、津波の果てに」という1冊。釜石市の廃校を利用して設けられた遺体安置所にかかわる人々を取材したルポルタージュ。情報も物資も少ない極限の状況下で、亡骸に向き合って活動する様々な立場の人々の姿を描いている。

内容に関しては、アマゾンの書評を読んでもらえればいいんですが、自分にとっては、ボランティアに行った釜石の瓦礫の街並で、こんなことが起きていたということが衝撃でした。

もちろん、ニュースを聞いたり自分で現地に行ったりして、想像はしていたんですが、当然のことながら、現実はそれを遥かに凌駕しているわけで。

5月21日に、はじめてのボランティアで大槌町に行った時、釜石市経由で向かっているので、自分が初めて見た被災地は釜石の中心市街地です。「遺体」によると、地震直後はすべてが瓦礫と泥が覆い尽くしされて、交通封鎖で住民は中に入れず(それでも別のルートからは入れたようだが)、野ざらしの遺体が何日もあったそうだ。

5月の時点でも、道路は通れるものの、それ以外の場所には瓦礫や車が山積み、という状態だったが、ボラバスから見たあの場所に、たくさんの人が埋まってたかと思うと、それは十分わかってたけど、やはりショックだ。

ほかにも、ボラセンがあった場所が市役所の仮庁舎としても使われてたりとか、通った道のすぐ近くに安置所があったりとか、ただ通り過ぎただけの場所であった事を補完してくれるのが、とてもありがたいです。

それにしても、泥を大量に飲み込んで窒息して死ぬとか、生まれた町の上を漂いながら焼死するとか、いったい誰がそんな死に方を予想しただろうか。

2011年5月21日の釜石。

# by fujiiymk | 2012-03-10 22:24 | 震災・ボランティア | Trackback | Comments(0) 

唐丹小学校

NHKの7時のニュースで、津波で校舎が破壊された釜石市唐丹小学校の、仮設校舎への引越しの様子が紹介されました。

7月に、唐丹小学校のすぐ近くで瓦礫撤去作業をしているので、画面に釘付けになりました。

http://fujiiymk.exblog.jp/13130223/#13130223_1

防災教育が徹底していたため、児童は地震後すぐに避難して、死者はいなかったそうですが、現地は海から数100mの場所。海と学校の間には、高さ10mはある巨大な防波堤があるんですが、津波はそれを乗り越えて、背後の学校や家々を根こそぎにしていました。

引越し作業は大人だけでなく子供たちも頑張っていて、テレビの中の一人ひとりの顔から目が離せませんでした。あの廃墟の学校でこの子たちは過ごして、あの日恐怖と戦いながら逃げ出したんだな…。と思うと、泣けて泣けてしかたなかったです。それに、自宅も学校の近辺だろうから、ほとんどの子が家を失っただろうし。

# by fujiiymk | 2012-01-12 23:03 | Trackback | Comments(0) 

10/30(日)大船渡市(3・了)

午後は、陸に上がったままの泥や瓦礫をネコ車に積んで運ぶ。側溝からすくい上げるよりラクかも…と思ったけど、むしろこれのほうが大変。水気が抜けて比重が増してる気がする。

最初は数人で苦労しながらやっていたけど、途中から人を回してもらったのでどんどんはかどる。でも泥や土の中に瓦や木屑が多く入っていると、スコップがそれに当たって山に入って行かない。参加者の半分以上が軍手だったので、ゴム手袋の自分はがれきを拾ってはネコ車に放り入れる。

自販機のタバコのサンプルやダーツの矢を見つけた。赤銅色に錆びた100円玉もよく出た。飲みかけのボトルも出てきて、「これも供養」と参加者の一人が中身を側溝に流した。出土品から、近くが飲み屋街だったのではと皆で推測する。スーパーマリオブラザーズのロムカセットもあった。津波があったのって昭和?



作業の後、バスは廃墟となった市街地へ。ボラセンに戻る前に、街の中心部を見せてくれるらしい。

1~2階が鉄骨だけになった建物や、基礎だけになった建物が並ぶ。大船渡プラザホテルとショッピングプラザマイヤ(岩手県沿岸南部を中心に展開するスーパー。本社は大船渡市)の近くを走ると、海に程近いマイヤの周辺はまだ水に浸かったまま。地盤沈下しているのだろう。堤防に小型の船が乗っているのが見えた。見間違いではないと思う。大船渡駅だったはずの場所は、まったく何もない。

市街地から国道45号に向かって坂を登ると、すぐに無傷の住宅が連なって見える。生活の気配がある。でもその家々の向かい側の家は半壊していたりして、無常としか言いようがない。参加者のひとりの話によると、いつ廃業してもおかしくないようなホテルが被災を免れ、今は1年先まで予約がいっぱいだったりするらしい。何が幸いするか分からない。


ボラセンを出発した後、バスは「かもめの玉子」で有名な、さいとう製菓の販売店に。せっかくなので何か買おうかと降りてみる。店頭に、震災後の地元の人の写真と言葉をいくつも並べたポスターが貼ってあって、ひとつひとつがリアルで重い。「俺、みんなの分も頑張るから」という言葉と青年の写真に泣きそうになった。

「くずまき高原チーズケーキ」(http://www.saitoseika.co.jp/item_detail/itemId,36/)を職場への土産に買ってみた。とても美味だった。


今回のボラバスの参加者は、ややリタイヤ世代が多かったように思う。また、もう何度も参加している人もいるようで、手馴れた人が目立った。あと、高校生くらいの娘2人と母親や、60歳代くらいの単身参加の女性も。すごい。特に、若い世代が関心を持ってくれるのは頼もしい。


堤防の上に船舶が残る。手前は歩道。
マイヤとその周辺。水がまだ引かない。
マイヤとその周辺。地図を見ると、今は空き地に見える場所にも建物が立ち並んでいたことか分かる
(被災地での写真撮影はモラル違反です。クレームがあれば直ちに削除します)

# by fujiiymk | 2011-11-01 22:00 | 震災・ボランティア | Trackback | Comments(0) 

10/30(日)大船渡市(2)


作業は側溝の泥上げ。海の方ほど水が多く、溢れて側溝の縁が見えなくなっている。2人1組で使う専門の工具やバールを使ってフタをあけて、スコップで泥やがれきをすくい上げ、ネコ車で運んで集め、最後にフタを戻すのが一連の流れ。

受け持ったのは深さが40cmほどもある新しい側溝で、フタも重たい。泥水で見えないフタを2人1組で空けていくけど、フタのない側溝をまたぐ時は、どこが穴かはっきり分からないので感覚的に怖い。フタを寄せる時は、すくい上げた泥に足をとられそうになる。1度、足にフタを落としかけたけど、とっさに避けて大したケガにはならず。1時間ほどで痛みは引いた。

側溝すくいも、石や瓦礫、泥と水が重くなかなかの重労働。厚手のゴム手袋を持参したのが幸いして、泥水に手を突っ込みながら作業を進める。底のほうに粘土のようにたまった泥がとても重たく、他の参加者が言うにはそれは重油だとのこと。オイルタンクが破損して流れ出たのだろうか。

ネコ車での運搬もまた難儀で、水も固形物もいっしょくたなので、重い上にバランスがとりにくい。捨て場(といっても、誰かの家の敷地のはずなのだが)は粘性の強い泥だらけなので、足をとられやすい。作業の終わりごろにはネコ車が1台ダメになってしまった。

海側のほうは、午後には大潮で水が上がり、作業ができなくなるとのことで、午前のうちはそちらをメーンに作業。よく見ると、海側の道路は砂利が敷かれている。冠水時にも通れるように敷石したのだろう。側溝の底に溜まった小さい角張った石は、冠水時にそこから運ばれてくるのかもしれない。

作業場の横を通る道路は途中でひどく陥没していて、時々通る車の中には、車体下部を擦っていくものも。ハデな音を立てて通って行くのは、ほとんど県外ナンバーだったように思う。北海道のパトカーも通っていった。

そういえばここに向かう途中、遠野市の「道の駅みやもり」では、京都のJAの団体を乗せた京都ナンバーのバスと、練馬ナンバーのバスを見た。震災から半年過ぎて、報道はだいぶ減ったけど、今でも被災地には日本中から助けが集まっている。


大船渡線から陸側を望む。レールは錆び付いている
大船渡線踏み切りから南側。レールが途絶えている。遮断機がないので、最初これが踏み切りと分からなかった。
(被災地での写真撮影はモラル違反です。クレームがあれば直ちに削除します)

# by fujiiymk | 2011-11-01 21:47 | 震災・ボランティア | Trackback | Comments(0) 

10/30(日)大船渡市(1)

秋田県社会福祉協議会のボラバスを使って、大船渡市へ。7/23以来、久々のボランティア。仕事が少し忙しかったり指を切ったりして、前日まであまり気分が乗らなかったけど、土曜の夕方に持ち物を準備していると、がぜん気分が高揚してきた。心が武者ぶるう。

個人が行ってできることなどは大海の一滴、浜の砂粒のようなものだけど、ほんの少しだとしても役に立てることは嬉しいし、有難い。


5時15分に県庁に集合。現地に向かう。40人程度乗れるバスに、参加者は20人くらい。大きな機材を使えるならもっと人を集めればいいのに…と思ってしまう。募集枠が足りなくて、毎回すごい競争率なのに。


大船渡のボラセンで仕事を受けて、国道45号を通って被害エリアへ。どこの被災地でも同じだけど、ある一線を越えると突然、津波の爪あとの残る風景に切り替わる。津波の被災域と非被災域の境のあたりに漁船が残っていて、ようやく解体に着手した様子だった。

市街地に下りると、周囲にはほとんど建物の基礎ばかり。そんな中に、新築をはじめたばかりの建物を2つほど見かけた。

作業場所は、1階部分が壊れた大きな廃工場の近く。工場の向こうに、白い大きなテントが2つ見えた。自衛隊は撤収したはずだから、何かの仮作業場だろうか。

(家に戻ってからgoogleで調べましたが、廃工場は太洋産業大船渡工場だったと思われます。断言できないのは、周囲の建物が根こそぎなくなっていて、地図と記憶を照らし合わせても確信できないから…です)

まだ陸に船が残っている。津波で川を遡上したのだろうか
ひしゃげた車、詰まれたままの泥。未だに一面このような景色が広がる。写真奥は大船渡プラザホテル、マイヤ、薬王堂。薬王堂はほとんど鉄骨だけの状態だった
太洋産業大船渡工場? 写真奥が海

(被災地での写真撮影はモラル違反です。クレームがあれば直ちに削除します)

# by fujiiymk | 2011-10-31 22:23 | 震災・ボランティア | Trackback | Comments(0) 

大船渡から帰還中なう

気付いたら、指のキズが開いてた。破傷風菌が入ってない事を願う。
ゴム手袋の中に泥は入らなかったから大丈夫と思うけど。


# by fujiiymk | 2011-10-30 18:47 | 未分類 | Trackback | Comments(0) 

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